【皐月怪異】

この川には鯉がいる。カラフルな錦鯉ではなく地味で汚い黒いやつだ。水面に黒い影がうつる。生活排水の垂れ流れる川の、ぶくぶくと太った背中はぬらりと光を返す。もう少し上流に行けばこれがたむろしている小さな溜池がある。だれかが餌付けでもしたのか人間が近づくと一斉に寄ってくる。大きく口を開ける顔。顔。顔。何かを訴えかけるような、今にも声を出しそうなその顔が嫌いだ。この地獄から救いを求めるような、一縷の希望に縋るような。あるいは引摺りこんで食らおうとしているのか。いずれにせよ、あれを見たくない僕は早足で橋を通り抜ける。ばちゃり、か、どぼん、か、そんな音を立て存在を意識させようとする。本当自分のことしか考えてないんだなぁと思う。思わず舌打ちが漏れる。誰もお前なんか救わないよ。

5階建ての校舎の、一番端の教室。その窓側の席からはプールが見える。退屈な授業の合間にふと外を見ると、いる。無数の顔がはっきりと見える。気持ち悪い。この教室に逃げ場はない。教師の唱える意味不明な呪文を聞き流しながら教科書を枕に突っ伏す。案の定、僕を呼ぶ大声。当然無視する。しばらくして諦めたのかぐちぐちとなにかぼやきながらまた呪文を唱え始める。もうすぐ夏がくる。どろどろと脂の融けた水に、浮かぶどす黒い肉塊と泳ぎたくなんかない。去年はどうしたっけ?たしかプールサイドに立って、しかし泳いだ記憶はない。どうにか回避したいところだ。


連休明けから気だるげな声が一気に増えた教室。誰も僕に声をかけない。


たしかこんな暑い日だった。あいつの顔を最後に見たのは。いや、常に見るようになったのは、か。手に残る感触もいつか薄れてしまった。何かを思い出そうとして、無駄だと止める。単に思い出したくないだけだろうけど。ばちゃばちゃと水音がする。僕を呼んでいる。また僕は君を無視する。
早足で通りすぎると橋の下、諦めるように鯉は浮かんでいた。

鯉はどこにでもいた。川にも溜め池にもプールにも、家だって安全地点じゃない。日の当たらない浴室は黒い黴に覆われて生臭い。鯉が棲むにはぴったりだ。浴槽に水を溜めずともあいつがいるのがわかる。排水溝からぼこぼこと、何が言いたい?大きく口をあけ、水を飲み込み喘ぎながら、泳げない鯉は死んだじゃないか。どろどろの腐りきった水の中で、ぶくぶくと膨らんでどす黒く変色した君は、あの時確かに死んだじゃないか。今さらなんだって言うんだ。風呂桶に水を溜め、排水溝に勢いよく被せる。溺れる鯉は水音にかき消される。僕は急いで扉を閉じた。

あいつがいなくなったと聞いて、一番慌てたのは母さんだった。母さんはあいつの親と仲が良かった。親子でうちに押し掛けて、あいつを僕に押し付けて何時間も駄弁る。オトモダチ?笑わせるなよ。何にも自分じゃできなくてべたべた甘えてくる気持ち悪いやつ。へらへら笑ってこっちの気持ちにも気づかない自己中なやつ。あんなやつが友達なわけあるか。母さんは唯一の友達だなんだと騒ぎ立てていたが知ったことじゃない。こいつだって僕のことをなにもわかっていない。僕が何をしたのかだって気づいちゃいない。
なぜバレなかったのかはわからない。でも好都合だった。


連休明け、学校は騒がしかった。ひどい腐臭が立ち込めていた。先生方は野次馬たちを教室に押し込めていた。警察はすぐに到着した。三階の端っこの教室の、窓側の席。プールがよく見えた。そうして僕は鯉を見た。最後に見たあいつとはかけはなれた姿だったがすぐにわかった。季節外れの猛暑の中、何日も水に浸かって。どろどろの君は鯉になった。


プールには水が張ってある。定期的に水を張らないと排水管が痛むらしい。詰まった肉塊の掃除のほうが大変だろうけど。なぜまた僕はここに来たのか。鯉と向き合う。たくさんの顔の中、見覚えのあるものが真正面にあった。大きく口を開けて助けを求めながら水を飲み込みもがき苦しんでいる。ごぼごぼと下水のように音を立てる。黒く淀んだ水は鯉を飲み込みまた浮き上がらせる。渦巻く淀みはもがく鯉により勢いを増す。
-自業自得だろ。
吐き捨てて振り返りかけた時。僕の体が宙を舞った。なにが起きたかもわからないまま、横向きに水面に叩きつけられる。渦に呑まれる。腐った水を飲み込む。ぬるぬると滑る床を蹴って水面に手を伸ばす。見れば水面は遥か遠い。水を掴んでも体は浮き上がらない。服は水を吸って重くなるばかり。汚水の味もわからないほどに飲み込んで、魚に成り果てた時。渦も収まって、穏やかになった水面。鯉なんてどこにもいなかった。澄んだ水、その向こう、浮かび上がった君の顔を。その表情を見ることもなく、視界は黒になった。

utugi_rin_

2023年より活動開始。
元素や植物の擬人化キャラクターの立ち絵を描く。

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